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タイトルの意味
このページで紹介する戦争体験談は、祖母から両親に、両親から僕に語り継がれました。
この語り継がれてきたバトンは、非常に重たいものです。
2015年(平成27年)6月28日に98歳で他界した母方の祖母は、両親はまだ生きていると思い込み、
「お父さんはなぜか途中から来なくなってしまって、何しているんでしょうねー」 と言ったことがありました。
東京大空襲で戦災死した曽祖父母
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練馬区小竹町1丁目68番地にあった今泉家 昭和24年前後
昭和20年3月、板橋区小竹町2386番地 (現・練馬区小竹町1丁目68番地) の自宅で、
祖母はお産で苦しんでいました。
そんな中、「ウォー。ウォー」 と空襲警報が鳴り響き、そのたびに 「明かりを消して下さーい!」 と言われ、
祖母は真っ暗の中、お産の苦しみだけではなく、
アメリカ軍による空襲の恐怖にも絶えなければなりませんでした。
そして、昭和20年3月8日、空襲の被害に合うことなく、無事に子どもが生まれました。
その子どもが僕の母です。
もし、空襲の被害に合い、祖母がお産の途中で命を落としていたら、
母も僕も生まれていなかったわけです。祖母にとっては、本当に命がけのお産でした。
戦災死された曽祖父母
翌日の昭和20年3月9日、
深川区東陽町1丁目17番地2号 (現・江東区東陽3丁目14番地?号) に住んでいた、
祖母の父親、つまり僕の曽祖父・塚本百三郎は、戦時中に生まれた可愛い孫娘を見たさに、
深川区から板橋区にやってきて、生まれたばかりの母を見て喜びました。
その夕方、自宅に帰ろうとする曽祖父に対して、祖母は 「今日は泊まっていって」 と声をかけましたが、
曽祖父は 「家にお母さん(僕の曽祖母・塚本テル)を残してきて心配だから、今日は帰る」 と言い、
深川区東陽町の自宅へ帰っていきました。
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塚本家跡付近の交差点
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塚本家は東陽3丁目14番地の大門通りに面してあった
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大門通りに面してあった塚本家。当時、左隣に写真屋、右隣にすし屋があった。
曽祖父は無事、自宅に着いて、夫婦二人そろって床につきました。
その晩、2機のB29戦闘機が東京上空に飛来したため、3月9日の午後10時30分に警戒警報が発令されましたが、
この2機のB29は千葉県の房総沖へ退去したため、まもなくすると警戒警報は解除されました。
しかし、これは日本軍や、東京で生活する民間人を油断させるため、アメリカ軍の見せかけ作戦でした。
そして、日付が変わって3月10日の午前0時08分、深川区木場 (現・江東区木場) に、
アメリカ軍のB29戦闘機の1番機が、焼夷弾 第1弾を投下しました。
曽祖父母が暮らしていた深川区東陽町に隣接する深川区木場で、最初の火の手が上がりました。
7分後の3月10日 午前0時15分にようやく空襲警報が発令されました。
3月10日 午前2時30分近くまで約2時間半に渡って、
深川区や城東区をはじめ、本所区・神田区など東京の下町地区は、
B29戦闘機による無差別攻撃を受け、東西南北は火の海に襲われました。
この日は北風が強い夜で、すさまじい火事嵐を呼び、
生存者の証言では 「巨大な火の壺の中にいるようなもの」 だったそうだ。
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曽祖父母が戦災死した東陽公園 後ろは祖母が卒業した江東区立東陽小学校
祖母の話によると、当時、東陽小学校と東陽公園の境に囲いがなく、
どこまでが公園で、どこまでが学校だったのか、よく分らなかったそうです。
曽祖父と曽祖母は近所の人たちと、 東陽小学校と隣接している東陽公園へ逃げました。
しかし、火は東陽公園にもどんどん押し寄せ、とうとう東陽公園のすべてを火が飲み込みました。
その中で、曽祖父母は戦災死されました。
娘である祖母たち、孫である母たちのことを思いながら、火の中で命を落としたのだろう。
空襲警報が解除されたのは、3月10日の午前2時37分でした。
塚本家の戸籍では、「昭和弐拾年参月拾日午前弐時 空襲ニ因リ死亡」 とされています。
死亡届は昭和20年4月27日に、洲崎警察署長代理 警部補 鈴木實が、深川区役所に報告しています。
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大正6年に生まれた祖母
2015年(平成27年)6月28日に98歳で他界した祖母は、
まだ元気に生きていた時代、飛行機の音がすると、恐くて耳をふさいでいました。
空襲に怯えながらのお産で生まれてきた母は、生まれつき恐がり屋になりました。
☆
祖母は、2007年(平成19年)1月、転んで足を骨折され、それ以来、八王子市内で入院生活になり ました。
認知症もあったため、「お父さんはなぜか途中から来なくなってしまって、何しているんでしょうねー」と言っていました。
祖母自身には有り難いことなのかもしれません。
墓石の下には菊蔵さんの歯と髪の毛
大正9年4月16日、北多摩郡多磨村是政991番地 (現・府中市是政3丁目30番地13号) の川辺家に、
川辺力蔵・ヤソさんの5男として生まれた川辺菊蔵さん。年の差はありますが、父にとっていとこです。
学問好きだった菊蔵さんは日々勉学に励み、学業に専念していたそうです。また、温厚な性格だったそうです。
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南武是政停留場について
昭和 3 年12月 | 是政多摩川停留場として開業 |
昭和 4 年 9 月 | 是政多摩川停留場を駅に格上げ |
昭和 7 年 6 月 | 是政多摩川駅を南武是政駅に改称 |
昭和 8 年 6 月 | 南武是政駅を停留場に格下げ |
昭和19年 | 南武是政停留場は廃止 |
その菊蔵さんの手元にも招集令状が届き、
生まれ育った生家、大勢の家族と暮らした生家、親戚や友人がいる故郷・多磨村を離れる事になりました。
戦地へ向かう前、生家の前で記念写真を撮影したそうです。(祖父の生家にあります)。
そして、西武多摩川線の是政駅より列車に乗り、見たこともない異国の地・中国へ向けて出征されました。
南武鉄道 (現・JR南武線) の南武是政停留場より、それぞれの戦地へ向かった人々もいることでしょう。
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中国で戦死された川辺菊蔵之墓
昭和17年8月4日 午後6時30分、菊蔵さんはまだ22歳の若さ。
夢と希望を持ちながら時代の悲劇から逃れることはできず、
ふるさと是政から遠く離れた中国 河北省唐山市豊潤区石各庄鎮 (当時 ・河北省豊潤県石各庄) の戦闘で、
無念の戦死をされました。
コーリャン畑(家畜のえさを栽培している畑)に於いて、ゲリラに撃たれたと伝えられています。
昭和17年9月23日に、東部第六部隊の隊長・永澤正美が、
当時の多磨村役場 (現・第四学童クラブの場所) に戦死報告をしています。
父・川辺力蔵さんの手元には、菊蔵さんの遺骨と髪の毛が届けられたそうですが、
歯を見て、「確かに息子の歯だ…」 と確信したそうです。
☆
昭和19年8月、菊蔵さんを弔ってお兄さまが 、大きなお墓を建立してあげました。
21世紀の現代、 お墓を通して菊蔵さんは、私たちに何を語ろうとしているのだろう。
そして、現在、中国河北省唐山市豊潤区のどこかに、菊蔵さんの遺骨が眠っているのであろう。
※読み方 (河北省:かほくしょう) (唐山市:とうざんし) (豊潤区:ほうじゅんく)
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大國魂神社の参道左手に建つ「忠魂永存」の碑
毎年9月24日には忠魂碑慰霊祭が行われています
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太平洋戦争の戦死者を慰霊するために
昭和33年建立された
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「忠魂永存」の碑 表側
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「忠魂永存」の碑 表側
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裏側には府中市内の戦死者が府中町・多磨村・西府村に分けて刻まれている
最上段の右から4番目には、川邉菊蔵さんの名前が見られます
「今日は死ぬのかな」と思いながら小学校へ
昭和12年9月生まれの父は、昭和19年には7歳、昭和20年には8歳で、小学校低学年でした。
当時、北多摩郡多磨村 (現在の府中市東部地区) の小学校は、多磨村立多磨小学校の1校だけでしたが、
多磨小学校の是政分校が、現在、是政保育園となっている場所にあり、 1・2年生の低学年は是政分校に通っていました。
しかし、週に1回ぐらいは、多磨小学校本校に通う日があったそうです。
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府中市立府中第四小学校 (旧多磨村立多磨小学校)
多磨村是政の自宅から多磨小学校本校までは歩いて約30分~40分。
登校時間、多磨小学校に向けて歩いている間と、下校時間、自宅に向けて歩いている間、
毎週のようにアメリカ軍の戦闘機が、自分の上を飛んできたそうです。
通学路だった東郷寺通り沿いは、水田・畑・桑畑が一面に広がっており、隠れる場所も無く、
毎回 「今日は死ぬのかな…?」 と思いながら、胸に不安を抱きながら歩いたそうです。
現代のように、遊びながら登下校しているばあいではなかったのです。
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旧二ケ村用水に架かる旧亀里橋 (平成4年当時)
また、空襲警報がなるたび、二ケ村用水に架かる亀里橋 (府中街道) に行き、
亀里橋の真下に隠れて一晩中立ったまま、夜明けを待ったそうです。
橋の真下に“掘っ立て小屋”を作り、一夜を過ごした家もあり、父は子ども心に羨ましく思いました。
亀里橋の真下に避難するたび、東京市 (現在の東京23区) の方角を見ると、
空襲で真っ赤に染まっていたそうです。
また、庭には、祖父が防空壕を掘って、そこに隠れることもあったそうです。
昭和20年に入ってから府中町・多磨村・西府村(現在の府中市域)でも
下記のように空襲にあいました。
2月19日 | 西府村 |
3月04日 | 府中町 |
4月04日 | 府中町 |
4月18日 | 府中町 |
4月19日 | 府中町 |
5月25日 | 多磨村 |
7月10日 | 多磨村 |
昭和20年8月15日、終戦を知った父は 「今日からゆっくり眠れる」 と喜んだことが、
終戦当日の唯一残る記憶だということです。
このような悲劇が世界各地で永久に起きませんように、
日本の恒久平和と世界の恒久平和をお祈りいたします。
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