いま発生してもおかしくない首都直下地震に、日ごろから備えておきましょう

むかしの我が家

昭和28年頃 祖母と父

昭和29年頃 祖母と父、おばたち
幼い子どもは石橋さん (父から見て、いとこの子ども)

昭和29年か30年 母屋の縁側にて
前列が17歳だった父、後列中央は石橋さん (父から見て、いとこ)

八百文の三輪自動車  祖父の顔が見える

近所の子どもと一緒に父

わが家の北隣にあった横山家水田を背景に父

わが家北隣の横山家水田と影山家の土蔵
(水田は、昭和40年代に横山工務店の廃棄物処分場、平成初期に駐車場へと姿を変え、現在は一戸建て)

五右衛門風呂から能率風呂に変わった浴室前で、祖母が外孫と一緒に

母屋の縁側前で遊ぶ外孫

庭で、外孫二人と一緒に祖母

庭の奥にあった車庫で作業している祖母

昭和39年2月 母屋の西側に増築した父の部屋

昭和47年2月 祖父の告別式
(僕はまだまだ生まれていない)

昭和47年2月 祖父の告別式 自宅前の道路
(左に用水のフタが見える)

昭和48年頃 母屋に併設された八百文の前
左に木村屋の箱や用水のフタが見える
隣家の駄菓子屋へ買い物に来た子どもたちの自転車も見える
写真右奥かやぶき屋根のお宅は是政村名主だった川辺五郎右衛門家

昭和48年1月か2月 浴室の前で、六女マサ江と外孫7人と一緒に 祖母
(僕はまだまだ生まれていない)

母屋を背景に祖母 浴室の煙突が見える
(僕はまだまだ生まれていない)

昭和49年 母屋と車庫と庭
(僕はまだまだ生まれていない)

 1階母屋の玄関 抱かれているのは稲城病院で生まれて退院した僕
(八百屋の部分だけ2階建に新築。 母屋の浴室だった場所は玄関に変貌)

 2階ベランダで内孫(僕)を抱いている祖母

 庭で妹を抱く母と庭遊びをする僕

 2階ベランダで遊ぶ僕 川辺商店の看板も見える

母屋を背景に内孫(妹)を抱いている祖母

 昔はわが家の庭先でシジミ取り

わが家の庭先には、水田を潤す用水路が流れていました。
しかし、この用水路沿いは水田が全滅しているため、
昭和30年代後半くらいに、用水路としての機能は廃止されました。

僕も知らない昔、父が子ども時代の昔、
この用水路には透き通ってキレイな冷たい水が流れていて、
川底ではシジミが砂を吹き、シジミが取れたそうです。
夕飯の“シジミ汁”に使うシジミが、庭先で取れたわけです。
さらには、祖父の好物だったというドジョウも泳いでいたそうです。
府中用水本流(妙光院下水系)や三ケ村用水とつながっていたので、
フナウグイハヤ)などの小魚も泳いできていたようです。

しかし、昭和40年代からドブ川となり、
昭和40・50・60年年代は汚れた生活排水が流れるようになりました。
悪臭や蚊の発生など、衛生面でも環境が悪化しました。
下水道が普及している現代は、雨水が流れるだけとなりました。

詳しくは 疏水百選 府中用水 のコンテンツ
「父に聞いたむかしの用水と多摩川」をご覧ください

野菜・果物・パン 八百文にも昔の写真があります

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