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久地・是政の川辺家一族の歴史
川崎市高津区久地(旧久地村)の川辺家一族と、府中市是政の川辺家一族は同じ一族です。
川辺伊賀守清忠時代
島津家時代の川辺伊賀守清忠
久地の川辺家宗家(元名主)に残る系図には 「本国 薩摩国」 と記されており、久地と是政の川辺家一族の先祖・川辺伊賀守清忠は、現在の鹿児島県出身です。
この時代はすべて霊視によると、鹿児島県日置市にある古垣城の日置家 (現・日吉小学校) で、川辺伊賀守は生まれたそうです。 久地の川辺家宗家に残る系図には、川辺伊賀守の父親は薩摩国日置郡他3郡の領主と記されています。霊視によると、その父親というのは、島津家一族の日置忠堅とされています。薩摩国と日置郡や、領主だったことは伝えていないうえでの霊視です。本当なら島津忠久の子孫になります。島津家一族は、名前に忠か久をつけ ることになっていますが、川辺伊賀守の名前も清忠で忠がついています。
12歳のころ、日置市にある一宇治城の伊集院家の養子となりました。日置家より伊集院家のほうが格が上です。15歳のころ、信濃国の赤沼島津家の養子となることが決まり、薩摩国を去ることになりました。 伊集院家より赤沼島津家のほうが格が上になります。薩摩国を去る時に、馬2頭に引かれ馬車で信濃国へ向かう姿を、実母が泣きながら見送ったそうです。
赤沼島津家で過ごしている間に、伊賀守清忠の名前も与えられたかもしれません。川辺伊賀守は2度と両親に会えなくなりました。
北条の家臣時代の川辺伊賀守清忠
大人になった川辺伊賀守は、なぜか島津家を捨てて、名字を川辺としました。島津家が本当であれば、子孫としてもったいないことです。そして、小田原城を拠点に活躍していた北条氏康の家臣となりました。霊視によると、北条の家臣時代は、神奈川県小田原市の小田原城、神奈川県鎌倉市の玉縄城、横浜市港北区の小机城を任されたそうです。
川辺伊賀守の正室は、北条氏康の娘だと、久地の川辺家宗家では伝わっています。しかし、北条氏康はたくさんの養女もいましたから、実の娘ではなく、養女ということも考えられますので、北条との血縁は不明です。ですが、霊視では北条氏康との血縁があるそうです。
川辺伊賀守の正室は、北条氏康の娘だと、久地の川辺家宗家では伝わっています。しかし、北条氏康はたくさんの養女もいましたから、実の娘ではなく、養女ということも考えられますので、北条との血縁は不明です。ですが、霊視では北条氏康との血縁があるそうです。
北条氏政の家臣を辞めた川辺伊賀守清忠
北条の家臣だった川辺伊賀守は、天正18年(1590)に小田原城と八王子城が落城する約20年前の室町時代末期だと思われますが、 北条氏政の家臣を辞め、現在の東京都世田谷区に自らの家臣とともに移り住みました。現在の世田谷区鎌田1丁目(旧久地村、旧・世田谷区久地町)に居を構えたそうです。現在の最寄駅は二子玉川駅です。 そこには同じ名字の川辺家がすでに存在していたため、遠慮や、どちらの川辺家が区別するため、下川辺を名のっていた時代もあります。
霊視によると、久地村の名前は川辺伊賀守が名づけたそうです。久地村の久は島津家で名前に使う漢字ですね。
当時の多摩川は大変な暴れ川であったため、川辺伊賀守時代の途中、多摩川の大氾濫によって久地村が南北に分断され、対岸となる久地村(現・川崎市高津区)に移り住 みました。対岸に移ってから川辺伊賀守の息子が近くに分家しているそうです。そして、今日に至っています。 その後、下川辺は川辺に戻しています。
川辺伊賀守が養周院を開基して他界
お墓は二子玉川(多摩川)の川底
そして、室町時代末期にあたる永禄13年・元亀元年(1570)ごろ、川辺伊賀守は二子玉川の多摩川河川敷にある兵庫島の近くに曹洞宗養周院を開基しましたが、12年後の天正10年(1582)、川辺伊賀守は他界しました。曹洞宗養周院のホームページにも掲載されています。天正10年といえば、織田信長が本能寺の変で他界した年です。
その養周院も多摩川の大氾濫によって全て流され、川辺伊賀守のお墓も流されてしまいました。川辺伊賀守のお墓は見つからず、現在でも、二子玉川付近の多摩川河川敷に、お墓が眠っているということです。
川辺伊賀守が他界後
その後、川辺伊賀守を初代とする川辺家宗家は、2代目・川辺清勝が久地村の名主となりました。現当主で17代目となります。屋号は元名主といいます。屋号が梅屋敷と呼ばれる方は、川辺家宗家の分家の分家となります。江戸時代の享保年間末には、江戸幕府が時の当主・川辺森右衛門に対して、梅の実の販売を目的に、梅の木の植樹を命じ、川辺家の宅地内外に数百株の梅を植えて、それ以降、幕府からは 「梅屋敷」 という屋号で呼ばれたということです。また、久地梅林と呼ばれる由来にもなっています。
現在、川崎市高津区の住宅地図を拝見しますと、高津区久地を中心に30軒以上の川辺家が確認できますし、そのほかにも川辺家所有のビルやマンション・アパートを確認することができます。そして、JR南武線の久地駅(地図)を下車して改札口を出ると、目の前には、川辺ビルが出迎えてくれます。是政の川辺家一族とは比べものにならないほどの川辺家の数であり、さすがは、元祖の川辺家の町であることが分かります。また、川辺伊賀守が開基し、川辺家一族の菩提寺である養周院には、57軒ほどの川辺家の墓が見られます。
(ご協力に感謝 : 高津区久地の川辺家宗家)
☆ ☆ ☆
川辺伊賀守の息子 ・川辺清吉が是政村へ
さて、安土桃山時代の後期、川辺伊賀守の息子 (霊視では息子6人) の中で、久地村の川辺家宗家(名主家)を継がなくても良い川辺清吉(霊視では伊賀守三男)が、同じく北条の家臣であった井田摂津守是政が開拓したとされる是政村 (現・府中市是政) に移り住み、真言宗豊山派西蔵院の並び、府中街道 (当時は大丸街道だろうか) 沿いに、代々住むことになりました。ここが、是政の川辺家一族の始まりであり、つまり、川辺家発祥の地で、是政の川辺家宗家となります。
なぜ久地村から是政村に移り住んだのか、戦国の世、兄弟でも命を奪い合う時代。川辺清吉の兄・川辺清納言(せいなごん・霊視では伊賀守次男)から命を奪われる危険性があったため、久地村を離れて、多摩川に沿って上流へ歩いていきました。そんな中、同じく北条の家臣だった井田摂津守是政が、是政村に戻って村を開拓していることを耳にしたため、是政村を訪れました。
是政村に土着して隠ぺい工作
是政に着いてから、川辺清納言を警戒して、隠ぺい工作を行い、家紋を “丸に違い矢” から “丸に違い鷹の羽” に変えたり、川辺の川を河にしたりしました。のちに名字は川に戻しています。また、是政村に移住した川辺清吉の長男・川辺幸成は分家させ、三男・川辺又三郎(次男は早世か?)が川辺家宗家を2代目として継ぎました。 長男を守るためです。
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さて、本当は長男の川辺幸成が分家した川辺家はのちに、是政の川辺家一族を代表する是政村の名主家※へと発展しました。川辺五郎兵衛・川辺五郎右衛門・川辺源蔵の名前が知られています。また、川辺伊賀守が久地村に、曹洞宗のお寺を開基したためだと考えられますが、川辺家元名主家の菩提寺は、是政村から離れた、古刹の曹洞宗高安寺 (府中市片町2丁目) になりました。是政村に住む家々の菩提寺は、真言宗豊山派の西蔵院か妙光院が多い中、珍しいことです。
※是政村の名主
郷土の森博物館によると、是政村の名主は、寛延年間以降しか確認できていないようですが、
江戸時代、川辺家・井田家・三岡家・大久保家などが名主を務めていました。
年番名主により、数軒が一年交代で名主を務めていただろうと思われます。
文政年間以降は三岡家の例しか確認できないことから、三岡家が継続していたかもしれません。
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是政の川辺家一族の家紋は丸に違い鷹の羽
是政村の氏神様である是政八幡神社には、8代将軍・徳川吉宗と江戸南町奉行・大岡越前守忠相の時代である享保年間、享保4年に、川辺五郎兵衛が石の灯篭を奉納していますし、安永4年には、川辺五郎石衛門が境内末社 (稲荷・山王・水神・日枝神社の四柱が合祀)の鳥居を奉納しています。
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また、郷土の森博物館 (府中市南町6丁目) によると、文化5年に、大田南畝 (別号:大田蜀山人)が泊まった是政村の名主家として、大田南畝が記した「調布日記」に記録されています。郷土の森博物館の館長さんや学芸員は、是政村の名主を務めた川辺家で、大田南畝が宿泊した川辺家として知られています。
大田南畝は御徒勤めの幕臣で、江戸時代の天明期を代表する文人・戯作者・狂歌師です。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよく行い、膨大な量の随筆を残しました。その大田南畝は1804年(文化5年)12月28日・12月29日(大晦日)・1月1日(元日)、川辺家に3泊し、1月2日朝には是政村を出発、多摩川巡視(幕命により堤防の状態を検分する仕事)を始めています。12月29日の日記には、川辺家の庭について文を記されていますので、ご紹介いたします。
~大田南畝 「調布日記」 名主の川辺家庭を記す~
二十九日陰、宵に雨降り夜半より南風つよし。けふは小尽の大晦日にて、
江戸にありなばいとまなかるべきを、 旅のやどりのしづかなるまゝに、
朝とく起て庭にあゆむ、庭ひろくつくりなして、松あり梅あり柳あり、
石をたて枯木をすえて心ありげにつくりなしたり、
垣をへだてゝ遠く望めば、玉川(多摩川)のむかふにつらなれる山みゆ、
河原※ちかくて水音もきこゆるばかりなり、
一むら竹のしげりたるに鳥のなくこゑなど、
山静如太古、日長以少年といふ句も思ひ出らる
※庭の跡はレ・セーナという川辺家所有のアパートが建っており、面影がありません。
※名主の川辺家近くを流れていた二ケ村用水と三ケ村用水のことだろうか。
または、当時は多摩川の流れの音が、是政3丁目まで聞こえていたのだろうか。
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(谷文晃 画)
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江戸時代後期に当主だった川辺源蔵が、是政村の村人にとって良い名主だったのでしょうか。その頃より、川辺家元名主家は「源蔵様」と呼ばれています。現在でも、ご年配の方々は 「源蔵様」 と呼んでおられます。ところが、お墓の墓誌を拝見しますと、源蔵実父の戒名や命日、源蔵養父の戒名や命日は刻まれているものの、川辺源蔵の戒名や命日は刻まれておらず、見当たらないので不思議です。例えば、「俺が死んでも、墓を建てるな」 と言って亡くなり、子孫はそれを守って墓を建てず、記録がないのでしょうか。
ある川辺家の主人は 「源蔵様は、一番は八幡様。二番は神様。俺も源蔵様と呼んでくれ」 と言われるほどの人物だったそうです。
(ご協力に感謝 : 府中市是政の川辺家宗家、郷土の森博物館 小野館長)
わが家の歴史
長屋住まいから独立して新たに川辺家として始まる
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川辺家所有の一戸建て賃貸住宅
川辺家名主家の2代目は、川辺幸成の息子・川辺清三郎が継がず、もう1人の息子・川辺五郎兵衛が継ぎ、川辺清三郎は敷地内にあった長屋に住んでいました。
名主家で働く人々に 「ご苦労さま」 と、ねぎらいの言葉をかけていたといいます。
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のちに、分家する兄・川辺清三郎に数か所の土地も与えてくださいました。
そのうちの一つ、是政村亀里(現・府中市是政3丁目30番地)の土地には小さな居を構え、
そのほか、5つの土地は農地にして、以後、先祖代々百姓として暮らしていくことになりました。
それが、祖父の生家である川辺家本家の始まりなのです。
それ以来、その先祖の子供、そのまた子供と、江戸時代・明治時代・大正時代・昭和時代に渡 り、
先祖代々、農業を営みながら百姓として暮らしていくことになりました。
菩提寺である高安寺に残る過去帳は、川辺家元名主家(わが家の本家の本家)と本家(わが家の本家)は、
『川邊五郎兵衛一家の法名』として、明治時代の途中まで、一緒の過去帳に記されています。
大所帯の中で生活した祖父
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祖父・川辺文吉は明治30年8月に、9人きょうだいの8番目として、この家で生まれることになりました。
大正9年まで、曽祖父の弟・川辺熊次郎さん (祖父にとっては父親の弟) 家族も暮らしていましたが、
川辺熊次郎さんは妻のほか、子ども5人 (男2人・女3人、そのうち女2人は早世) を授かっています。
熊次郎さんは大正9年に、多磨村是政2386番地 (現・府中市是政5丁目16番地) へ独立しました。
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また、明治35年、祖父がまだ5歳だった当時には、祖父の兄・川辺力蔵さんに長男が生まれたのを筆頭に、
力蔵さんには6人の子ども (男5人・女1人、そのうち男2人・女1人は早世) を授かっていますので、
大変な大所帯の中、祖父は生活していただろうと考えられます。祖父は5歳で、甥を授かっていることになります。
大正11年 祖父が生家より独立
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大正11年(1922年)、祖父・川辺文吉は25歳の若さで、生家より独立して、わが家を創建されました。
両親や兄・川辺力蔵の力は借りなかったので、資金・土地・家はなくてゼロからのスタートでした。
そこで、多摩川の川原で当時盛んに行われていた 「砂利ふるい」 の仕事をしてお金を稼ぎました。
そして、川辺家の土地ではなく、横山家の水田だった土地を借りて母屋を建てて、
大正11年に生家より独立して、わが家を創建されたのでした。
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独立して創建したわが家に曽祖父母 (祖父にとっては両親) を引き取って面倒みたと伝えられています。
お世話になった息子の祖父に対し、感謝した曽祖母は 「文ちゃんには苦労をかけたくない」 と話していたようです。
今後の人生の衣食住について案じていたのです。
その言葉が、曽祖母が話した唯一の言葉として今日に伝えられています。
曽祖父母が亡きあと、昭和初期には母屋に隣接した道路沿いで、青果業を始めると ともに、
祖父の生家に、農作業ができる者を失ってしまってからは、祖父が生家の田畑で農作業をしました。
府中街道拡幅事業用地で立ち退き
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詳しくは川辺家ゆかりの土地をこちらをご覧ください
残念ながら祖父・川辺文吉の生家は、是政橋4車線化による府中街道拡幅事業の用地になってしまい、
平成4年(1922年)に転居されてしまいました。
現在は、庭だった部分は府中街道の車道に姿を変え、連日、ダンプやトラックなどの大型車両が通過し、
母屋だった部分は稲城方面側の歩道と三岡家の庭に姿を変えています。
祖父とお姉さんたち
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(合成写真)
祖父は、曽祖父・川辺岩吉の四男、9人きょうだいの8番目(早世を除くと7人きょうだいの6番目)として、
明治30年8月25日、東京府北多摩郡多磨村是政991番地に生まれました。
祖父の姉4人のうち写真に写っている3人(右から長女キン 四女セイ 五女トメ)は多磨村是政の各家に嫁ぎ、
写真に写っていない二女チカだけは、当時としては是政から離れている神代村佐須の斉藤家に嫁いでいます。
神代村佐須は現在、府中市のお隣り調布市佐須町です。
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そして、祖父は25歳の時に、生まれ育った生家より独立して、わが家を創建しました。
創建は1922年(大正11年)のことでした。2012年(平成24年)で創建90周年です。
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